【150年誌WEB版を作成】
■WEBで見る中央院150年の歴史
・スマホで閲覧(QRカードまたは、小チラシにて配布)
・中央院公式ページに掲載
・元雑誌社の方にご協力を頂く(80歳後半の方)
【制作の流れ】
➞ 元出版社にお勤めだった方のご自宅にお邪魔して、中央院の歴史についてインタビューを行う(対談録音)
➞ 100年誌、140年誌を基にお話を進める。
➞ 写真素材をお借りするか、その場で撮影
➞ Elementorでページ作成。Timeline Storiesで年表を作成。アコーディオンで詳細を表示。テキストと画像を交えて情報を表示
注意:➞ PDFで作成する場合、誌面と同じように、縦横比の問題で文字数の制限や、文字画像の配置など制限があるため、デザインに構成が必要となる。
開創期の中央院
開山禅外萬宗大和尚(小松萬宗師)

開創金翎宜風大和尚(加藤金翎師)

王子工事中死亡諸霊之塔

最初の本堂・金毘羅堂・庫裡

大本山総持鐘鼓楼

大本山永平寺の山門
中央院の新設前後
| 年号 | 年(西暦) | 月.日 | 出来事 |
|---|---|---|---|
| 寛元 | 2(1244) | 高祖道元禅師福井県吉田郡永平寺町に日本曹洞宗の根本道場たる永平寺を開創す | |
| 元亨 | 元(1321) | 太祖紹瑾禅師石川県鳳至郡門前町に諸嶽山總持寺を開創す | |
| 文明 | 元(1469) | 6.5 | 随芳和尚奥尻島に曹洞宗法源寺を建立、のち上ノ国、さらに福山大館に移す |
| 慶長 | 9(1604) | 1.27 | 松前慶広、徳川家康に謁し、黒印の制書を受け、志摩守に任ぜられる |
| 寛文 | 6(1666) | 僧円空来り各地に仏像をおさめる | |
| 〃 | 7(1667) | 8.6 | 樽前山大噴火す |
| 寛政 | 11(1799) | 1.16 | 幕府、東蝦夷地を直轄地とする |
| 〃 | 12(1800) | 4 | 八王子千人同心千人頭原半左衛門以下100名蝦夷地に移住し、勇払および白糠にそれぞれ50名づつ屯田す |
| 享和 | 3(1803) | 5 | 勇払に『勇武津波切不動尊』を建立す |
| 文化 | 元(1804) | 4 | 幕府、有珠に善光寺(浄土宗)、様似に等澍院(天台宗)、厚岸に国泰寺(臨済宗)の蝦夷三官寺を建立す |
| 慶応 | 3(1867) | 10.14 | 徳川慶喜、大政を奉還す |
| 〃 | 4(1868) | 4.12 | 箱館裁判所を設置す |
説教場設立までの経緯
「小糸魚ハ白嶋萬吉宿屋アリ、土塀ヲ環シタリ、外ニ鍛冶屋アリ、舊道ニ沿フテ寺アリ、東京芝ノ別レナリト云ヒ居レリ、僧侶ハ神主之ヲ兼ネ居レリ」
といった例が記されている。
ただし、この小糸魚の寺は正式な寺院ではなく、漁場関係者による私的なものであったため、明治初年には廃止された。
明治6年6月には、札幌と室蘭を結ぶ新国道が完成。それまでの旧道では、勇払を経由し札幌に至っていたが、苫小牧から植苗を経て千歳に至るコースに変わった。そのため、同年9月27日、当時の行政機関であった勇払郡開拓使出張所も交通の新中心地となった苫小牧(当時は苦細)に移転した。また、三官職と呼ばれた戸長、郵便取扱所、駅逓も苫小牧に移転、または新設され、短期間で勇払郡の中心地は苫小牧に移った。
明治5年当時、苫小牧付近の永住者は中山平三郎、白沢亥之松ら4戸18人であったが、明治12年には32戸100人へと増加し、現在の中央院付近を中心とする旧市街地に寒村が形成された。
苫小牧はもともと漁業を中心とする地域であったが、特に天保年間以降、商品作物としてのや桑の肥料としてイワシ〆粕が注目されるようになった。このため、場所請負人をはじめ多くの出稼ぎ漁業家が来浜し、イワシを捕って魚粕を製造するようになり、その場所は樽前浜と呼ばれた。漁期中の苫小牧沿岸は大いに賑わいを見せたが、漁が終わると番人だけを残し、ほとんどの人は引き揚げてしまい、再び寒村の状態に戻ってしまった。
しかし、勇払郡の中心が苫小牧に移り始めると、これらの人々の中にも永住を望む者や他地域からの移住者が現れ、次第に集落が形成されていった。
こうなると、顔見知りや日頃世話になったり、助け合ったりしている人の死には、集団行事としての葬儀が行われるようになり、その執行には僧侶が必要とされた。当初は仏事法要のすべてを室蘭や札幌の寺院に依頼していたが、交通の不便な時代で、往復に3日から4日を要し、極めて不便であった。こうした事情から、苫小牧にも説教所を設置して、常駐の僧侶を派遣してほしいという気運が高まった。
苫小牧は函館や南部、秋田など東北北部の漁民によって発展し、特に禅宗との関わりが深く、法要仏事の依頼に際しても札幌中央寺との関係が深かったと考えられる。このため、当地方最初の説教所設置出願に対しても曹洞宗札幌中央寺が選ばれた。
(星野和太郎「北海道寺院沿革誌」 明治二十七年 時習館)
こうして、明治12年4月8日には、苫小牧村二十一番地の川村重太郎ほか2名が、札幌中央寺の前身である曹洞宗中教院(当時は曹洞宗北海道宗務事務執行)に対して、曹洞宗説教場の公称を出願し、開拓使の許可を得て、曹洞宗第二説教場が設置された。
そして、初任として加藤金翔師が住し、交通の不便もあったため、この地方の法要や仏事はすべてこの説教場で執行された。
その範囲は、中央院の過去帳に「苫小牧をはじめ、鵡川、白老、千歳、漁」などとあることからも、勇払・白老・千歳の三郡にわたっていたことがうかがえる。

寺院案内(村勢一班 明治四十四年)
中央院の寺号公称

檀信徒に通知された寺号公称文書(明治17年)
中央院初期の衰勢
寺道路と洞門小学校の設置
髙橋夫妻の寄進
明治25年、北海道炭鉱鉄道室蘭線の開通により駅逓として賑わった苫小牧村も、次第に衰退の一途をたどった。当時の随一の産業であったイワシ漁業の不振が続き、さらに明治30年と明治32年の大火によって村はまさに苦境に陥り、住民の移住や倒産が相次いだ。
以前は住職の活発な活動により順調に発展を続けていた中央院であったが、この不況に遭い、運営も厳しくなり経営に大きな困難を感じていた。
しかし明治36年、村の大地主であり同時に雑貨店と酒屋を営んでいた当時の檀徒総代の一人で熱心な曹洞宗信者であった高橋久太郎とその妻キクノは、この苦境を見るに忍びず、将来寺門の経営資金とするためと願って畑地一町五反歩を寄進し、寺門の救済に尽力した。
なお、この土地は現在、市内のほぼ中心地となり宅地として賃貸され、大いに寺門運営の財源となっている。高橋夫妻の意向は全面的に受け入れられた。

髙橋久太郎夫妻の記念碑
王子製紙と中央院
千歳発電所工事の死亡者
王子製紙は明治45年5月、苫小牧工場建設の手始めとして、千歳川水路工事に着手した。苫小牧村には王子工場建設事務所が設けられ、発電所工事に必要な資材や機械類が次々と運び込まれた。
工事は大倉組の請負で、札幌の阿部久四郎が下請を務めた。この工事には多くの人夫が使役されたが、当時のことゆえ、冬でも裸や素足で作業が行われ、いわゆる「タコ部屋」そのものであった。人夫の酷使は相当なもので、死亡する者もあれば、辛さに耐えきれず工事現場から逃げ出す者もいたという。
現に中央院の過去帳には以下のようななどの記載がある。
「千歳烏棚無滝ノ上 〇〇〇 四十六歳 届人 幕田政次郎」
「支笏湖番外地 〇〇〇 二十五歳 届人 柿沼久六」
幕田および柿沼は、王子工場の下請配下に入った請負主であり、〇〇の部分は死亡者の名前だが、ここでは記載を控えたものである。
当時、苫小牧村には真宗本願寺派および大谷派の説教所も存在していたが、真宗寺の前身である本願寺派説教所にも、喧嘩によって死亡した人夫2名が一度に運ばれ、葬儀が行われたことがあるとという朝倉住職の話もある。
そのため、当時は相当数の犠牲者が出ていたものと想像できる。そして、苫小牧の寺院に運ばれ、丁重なる読経のもとで埋葬されたのは、その中の一部に過ぎなかったのではないかと思われる。
王子工事中死亡諸霊之塔
苫小牧工場の建設は阿部久四郎が請け負い、その下に約10数組の下請け業者が入った。王子工場は苫小牧で初めての鉄筋コンクリート造の建物であり、この工事では多くの苦労と困難があった。多数の鳶職人が従事したが、高層建物からの落下や機械事故もあり、多くの死亡者を出した末に完成を迎えた。
このため、阿部久四郎は、明治42年11月に全工事の完了後に、工事中に亡くなった犠牲者の慰霊のため、中央院の境内に自ら施主となって、発起人および配下の関係下請主の名を連ねた「王子工事中死亡諸霊之塔」を建立した。
この塔は、当時寺号公称をしていた寺院が中央院のみだったことから、工事建設請負人である阿部久四郎以下が、工事中の災害や事故によって亡くなった人夫たちの霊を慰めるために建立した墓碑であることに違いない。
しかし、本家である王子製紙では、操業当初の3年間ほどは苫小牧のすべての寺院を招いて追悼法要を行っていたが、その後は「直接の従業員ではない」という理由で、慰霊祭などは一切行われなくなった。

王子工事中死亡諸鑑之塔
明治四十二年十一月十五日建立
施 主 阿部久四郎
発起人 木田鉄之助、本間儀三郎、塩谷勇
配 下 石川三之助、長谷川栄次郎、橋本秀松、本間七吉、外海喜代蔵、小野文造、柏木理八、柿沼久六、田中藤蔵、田中寅蔵、梅沢晋吉、野崎初之助、幕田政次郎、前沢貞八、深宮清作、小池亀太郎、赤川吉太朗、佐藤長次郎、菊川作次郎、宮海次郎、三沢庄次郎、藤谷三吉、鈴木与吉
大正時代の中央院

三世鳳山貞成大和尚(中三川貞成師)

四世中興松嶽仙齢大和尚(荒澤仙齢師)
本堂の新設と寺門財産
二世住職の遷化
三世住職の就任
加藤金翔住職は、本院の説教場開設当初より、当地の布教活動や教育・文化・公共事業などに幾多の貢献をなしたが、苫小牧が王子製紙の操業により工業都市へと変貌するのを目前に、一寒村に過ぎなかった明治39年2月に遷化した。
その後、三世住職には中三川貞成師が就任した。中三川師の住職時代は、王子製紙の操業により苫小牧が飛躍的に発展した時期であり、人口も明治39年には3,316人から明治43年には7,210人、大正4年には11,314人へと増加していた。
また、苫小牧の行政的地位も向上し、大正7年には二級町村制のまま町制を施行し、翌大正8年には 自治力の高い町村に適用。町村長や助役は町村会から選ばれ、住民は公民権を有し、条例制定も可能。住民自治が大きく認められ、地域の意思が反映しやすい制度。一級町村制が実施された。
こうした背景から、本院の檀信徒も当然増加し、寺院の再建が望まれるようになったのである。
本堂の新設

大正9年新築の中央院
土地交換と中央院財産
中央院は、説教場設立時に苫小牧村43番地の国有地445坪を加藤金翔名義で払下げを受けて境内地とし、さらに明治19年には加藤タマ名義で苫小牧村47番地84坪の払下げも受けた。その後も金翔師による財産拡充や檀信徒からの寄進によって、相当数の不動産を所有するに至った。
明治42年、苫小牧村では王子製紙苫小牧工場の建設により小学校児童が増加し、校舎の新設が必要となった。しかし適当な土地がなく、当時中央院が所有していた苫小牧村32番地新川通り西側(現中央ボウル[旧郵便局一帯])の土地3,762坪に着目。村有地である新川通り東側の二条通・三条通の土地と、中央院所有の学校予定地裏側の土地など計3,768坪との交換を申し出た。
中央院では檀徒総代会議を開いて検討した結果、教育目的でやむを得ないと判断し、本宗管長の許可を得て交換に応じた。
こうして、明治45年12月、苫小牧村は王子製紙より4,000円の寄付を受けて、六教完の苫小牧尋常小等小学校(現・西小学校の前身)の新校舎が完成した。
その後、苫小牧町は昭和3年1月1日に町名・地番の改正を実施したが、この時点での中央院の土地・財産の状況は以下の通りであった。

中央院所有財産(土地)一覧

苫小牧と中央院の土地交換文書(明治42年)

中央院本堂(大正14年)
仏を信じるという宗教心は人々の一般の習俗であり、特に郷里を離れ遠く夷地に入り
不慣れな環境と厳しい自然とたたかい漁猟に従った人たち、またこれを売りさばいて
産業の発展に尽くした人たちにとって、仏に依遵する情は神を敬うのと同様に切なるものがありました
曹洞宗の渡来と本道(北海道)の仏教 より
北海道に渡った曹洞宗
明治2年7月勇払郡に開拓使出張所が設けられ、ここから移住者が増え始めるものの、
明治6年6月札幌から室蘭に至る新国道が完成し、当時の行政機関や中心地は現在の苫小牧の中心地へと変わっていきました。明治5年には4戸18人であった人口が、明治12年には32戸100人という増加で、現中央院付近を市街地とする寒村の成立が確認されています。苫小牧は漁業を中心とする地であり、イワシの漁期中は季節労働者で賑わうものの終わればみな引き揚げ再び寒村となるという状態でした。しかしこの人々の中に永住を望む者や他所からの移住者も出始め次第に集落を形成するようになります。
こうして、日頃世話になり助け合う人の死には集団行事として葬儀を行うようになり、
はじめのうちは仏事法要のすべてを札幌の寺院に依頼していたものの、交通の不自由な時でもあり不便なことから苫小牧にも説教所を置いて常駐の僧侶を派遣してほしいという機運が高まっていきました。苫小牧は、函館や東北北部の漁民をもって発展した地であり、特に禅宗とのつながりが深くこのため、当地方最初の説教所設置出願に対しても曹洞宗札幌中央寺が選ばれたのでした。
こうして明治12年4月8日札幌中央寺の前進たる曹洞宗中教院(当時は曹洞宗北海道宗務事務執行)に曹洞宗説教場公称を出願し、開拓使の許可を得て曹洞宗第二説教場が
設置されました。交通の不便などで、当地方の法要仏事はすべてこの説教所でおこなわれ、その範囲は苫小牧をはじめ、鵡川、白老、千歳など広範にわたっていました。
開創期の中央院
中央院の新設前後 より
当地方唯一の寺院として布教、葬儀、法要などの務めを果たしてきた第二説教場は、
明治16年3月10日当時の村内若手が発起人及び世話人となり、一寺として公称することを出願しました。本山の許可を得て、明治17年2月15日には札幌県(開拓使が廃され、道内は函館県、札幌県、根室県に分割された)の許可を得て、寺号を曹洞宗実法山
中央院と公称し建立中の本堂、鎮守堂、庫裡も完成しました。公称とともに本寺札幌中央寺2世小松萬宗師を開山に勧請し、加藤金翔師が開創2世住職となりました。
開創期の中央院
中央院の新設前後 より
加藤金翔師は住職として説教場開設時より当地布教と教育文化、公共事業などに数多尽力したものの、苫小牧が王子製紙の操業によって工業都市へと変わってゆく様を見ずに遷化しました。3世住職中川貞成師の就任時は王子製紙の操業により苫小牧は飛躍的な発展を遂げます。苫小牧の行政的な地位の高まり、人口の増加に比例し檀信徒の増加もあり老朽化する本堂の再建が望まれるようになりました。
大正時代のの中央院 より
4世住職荒沢仙齢師の住職在任時に本堂再建工事がはじまり大正9年10月本堂が落成し、旧本堂は移転し庫裡として利用さるようになります。中央院の新本堂は当時、道南の名所として見物客が訪れる程でした。
大正10年5月1日こいのぼり大火と呼ばれる火災により苫小牧の市街地1007戸が
被災しました。辛くも大火を免れた中央院は鎮火後の被災者の避難所となりました。
大正時代の中央院 より
4世荒沢仙齢師遷化ののち5世住職として、白老村竹浦禅照寺前身の説教所住職加藤賢雄師が就任し、説教所との兼務を務め老朽化著しい庫裡の改築に着手するも、日支事変、大東亜戦争と国を挙げての戦時体制のもと工事は困難を極め、昭和19年に11月にようやく落成しました。
昭和時代の中央院 より
加藤賢雄師は竹浦禅照寺と中央院を兼務する間、中央院の庫裡改築と
ともに禅照寺の本堂新設も行うという事業を成し遂げました。完成ののちは、中央院住職を勇退し、本来の住職地である禅照寺に戻り寺門の興隆に尽くしました。
昭和時代の中央院 より
6世住職荒澤哲翁師は終戦後の混迷期において布教活動を通じ、社会福祉、教育活動、
選挙行政など苫小牧の発展に尽力し、
昭和22年因脈会、27年には授戒会及び初会結制を修行しました。昭和34年門前の国道拡張工事により庫裡が移転対象となり、改築工事とともに、山門及び境内地周囲塀の建立と80周年記念法要を修行しました。さらに人口増加による檀信徒の増加に対応すべく、昭和44年新霊牌堂(霊安堂)を落成し、
昭和51年10月には現在の姿となる山門と白壁の塀を寄進により建立。併せて開創100年山門落成記念大法要を執り行いました。次の10年に向けて檀信徒会館、庫裡改築工事を行い、第2位牌堂(第2霊安堂)を増改築し現在のたたずまいとなりました。
昭和時代の中央院
六世住職と中央院の隆盛 より
開創百年山門落成記念および祝祷大法要
(昭和51年10月4日~6日) より
開創
110年慶讃落成祝祷法要は2日にわたり厳修され、延べ1000人近い人々が参列しました。
昭和時代の中央院 より
開教110年で大法要 全道から90ヵ寺随喜、参拝者述1,000人
療養中の身押して円成・荒澤哲翁住職
7世住職荒義範師は平成10年老朽化した木造本堂と鎮守堂の新築工事を行い境内地内の墓地を移設しました。これにより現在の鉄筋コンクリートによる本堂と鎮守堂が完成しました。平成11年7月には開創120年慶讃法要及び本堂落慶記念法要とともに授戒会を厳修し、平成18年2月には慶讃130年記念法要とともに本堂三尊仏建立開眼法要を執り行いました。平成23年に発生した東日本大震災により被災した宮城県気仙沼市の面瀬小学校野球少年たちの交流事業の支援を行い、市内3チームの少年野球団との交流戦や、甲子園優勝校となった駒澤大学付属苫小牧高校の野球部との合同練習など、地域貢献事業に熱心に取り組みました。平成28年9月より現住職8世荒澤道範師とり、
開創140年慶讃法要と授戒会が平成30年9月に行われ、200名にも及ぶ戒弟が仏弟子となりました。令和8年10月に行われる開創150年記念法要に向けて、本堂西側面銅板屋根修復工事が終了し、昨今の情報化の時代にあわせ寺の活動を発信すべくホームページを作成し、次の50年に向けて檀信徒とともに歩み続けています。
説教場設立までの経緯
「小糸魚ハ白嶋萬吉宿屋アリ、土塀ヲ環シタリ、外ニ鍛冶屋アリ、舊道ニ沿フテ寺アリ、東京芝ノ別レナリト云ヒ居レリ、僧侶ハ神主之ヲ兼ネ居レリ」
といった例が記されている。
ただし、この小糸魚の寺は正式な寺院ではなく、漁場関係者による私的なものであったため、明治初年には廃止された。
明治6年6月には、札幌と室蘭を結ぶ新国道が完成。それまでの旧道では、勇払を経由し札幌に至っていたが、苫小牧から植苗を経て千歳に至るコースに変わった。そのため、同年9月27日、当時の行政機関であった勇払郡開拓使出張所も交通の新中心地となった苫小牧(当時は苦細)に移転した。また、三官職と呼ばれた戸長、郵便取扱所、駅逓も苫小牧に移転、または新設され、短期間で勇払郡の中心地は苫小牧に移った。
明治5年当時、苫小牧付近の永住者は中山平三郎、白沢亥之松ら4戸18人であったが、明治12年には32戸100人へと増加し、現在の中央院付近を中心とする旧市街地に寒村が形成された。
苫小牧はもともと漁業を中心とする地域であったが、特に天保年間以降、商品作物としてのや桑の肥料としてイワシ〆粕が注目されるようになった。このため、場所請負人をはじめ多くの出稼ぎ漁業家が来浜し、イワシを捕って魚粕を製造するようになり、その場所は樽前浜と呼ばれた。漁期中の苫小牧沿岸は大いに賑わいを見せたが、漁が終わると番人だけを残し、ほとんどの人は引き揚げてしまい、再び寒村の状態に戻ってしまった。
しかし、勇払郡の中心が苫小牧に移り始めると、これらの人々の中にも永住を望む者や他地域からの移住者が現れ、次第に集落が形成されていった。
こうなると、顔見知りや日頃世話になったり、助け合ったりしている人の死には、集団行事としての葬儀が行われるようになり、その執行には僧侶が必要とされた。当初は仏事法要のすべてを室蘭や札幌の寺院に依頼していたが、交通の不便な時代で、往復に3日から4日を要し、極めて不便であった。こうした事情から、苫小牧にも説教所を設置して、常駐の僧侶を派遣してほしいという気運が高まった。
苫小牧は函館や南部、秋田など東北北部の漁民によって発展し、特に禅宗との関わりが深く、法要仏事の依頼に際しても札幌中央寺との関係が深かったと考えられる。このため、当地方最初の説教所設置出願に対しても曹洞宗札幌中央寺が選ばれた。
(星野和太郎「北海道寺院沿革誌」 明治二十七年 時習館)
こうして、明治12年4月8日には、苫小牧村二十一番地の川村重太郎ほか2名が、札幌中央寺の前身である曹洞宗中教院(当時は曹洞宗北海道宗務事務執行)に対して、曹洞宗説教場の公称を出願し、開拓使の許可を得て、曹洞宗第二説教場が設置された。
そして、初任として加藤金翔師が住し、交通の不便もあったため、この地方の法要や仏事はすべてこの説教場で執行された。
その範囲は、中央院の過去帳に「苫小牧をはじめ、鵡川、白老、千歳、漁」などとあることからも、勇払・白老・千歳の三郡にわたっていたことがうかがえる。

寺院案内(村勢一班 明治四十四年)
中央院の寺号公称

檀信徒に通知された寺号公称文書(明治17年)
二世住職の遷化
三世住職の就任
加藤金翔住職は、本院の説教場開設当初より、当地の布教活動や教育・文化・公共事業などに幾多の貢献をなしたが、苫小牧が王子製紙の操業により工業都市へと変貌するのを目前に、一寒村に過ぎなかった明治39年2月に遷化した。
その後、三世住職には中三川貞成師が就任した。中三川師の住職時代は、王子製紙の操業により苫小牧が飛躍的に発展した時期であり、人口も明治39年には3,316人から明治43年には7,210人、大正4年には11,314人へと増加していた。
また、苫小牧の行政的地位も向上し、大正7年には二級町村制のまま町制を施行し、翌大正8年には 自治力の高い町村に適用。町村長や助役は町村会から選ばれ、住民は公民権を有し、条例制定も可能。住民自治が大きく認められ、地域の意思が反映しやすい制度。一級町村制が実施された。
こうした背景から、本院の檀信徒も当然増加し、寺院の再建が望まれるようになったのである。
本堂の新設

大正9年新築の中央院
四世住職の遷化
五世住職の就任
本院四世住職・荒沢仙齢師は、本堂の再建に着手するなど、積極的に寺門経営に取り組んだ。
さらに昭和2年4月には宗門道内議員に当選し、その後三期にわたって宗門の発展に尽力したほか、四期にわたり教区長を務め、宗門行政に大きく貢献した。仙齢師は昭和15年5月に遷化され、その功績をたたえて宗門は『中興』の称号を贈った。
その後、五世住職として白老村竹浦禅照寺前身の説教所住職であった加藤賢雄師が就任した。
賢雄師の代には、折しも 日支事変から大東亜戦争へと国が総力戦体制に突入し、軍国主義のもとで物資や食料が厳しく統制され、国民は日々苦しい生活を強いられていた。
こうした状況の中、庫裡の老朽化は限界に達しており、万事に窮屈な時代でありながらも、一切の困難を排して昭和18年5月に改築に着手した。しかし、資材難のため工事は遅れ、昭和19年11月にようやく落成を迎えた。
中央院と禅照寺
六世住職荒澤哲翁師の就任
加藤賢雄師の勇退後、昭和18年10月、本院副住職に就任していた荒沢哲翁師が、昭和20年4月に六世住職となった。
哲翁師は大正4年4月30日、山形県細谷村春光院二十一世の長男として生まれたが、幼少期に父の急逝に遭い、上京して東京都中野区竜昌寺住職・岡本碩翁師のもとに入弟。昭和十五年六月には得度を受け、正式に仏門に入った。
昭和十年に中野中学校を卒業したが、子弟2人が大学在学中のため進学を一時保留し、昭和12年4月、駒沢大学予科二年へ編入入学した。
しかし、10月には応召となり、直ちに中支戦線に派遣され、各地で転戦した。昭和16年3月に召集解除となり、4月には大学に復学した。
この間、哲翁師は永平寺および總持寺の両大本山における特別安居で修行を積み、昭和18年9月には駒沢大学仏教学科を卒業、本院副住職に就任した。
哲翁師が住職に就任した直後、日本は終戦を迎え、まさに混迷期であった。その中にあって哲翁師は、布教活動のみならず、社会福祉や公明選挙行政などを通じて、日本の再建に尽力した。
その後、苫小牧市は苫小牧港の築設と勇払原野の開発によって飛躍的に発展を遂げ、本院もその発展に即応して寺院の整備・拡充、布教活動の増進に努め、苫小牧市において最も古い伝統を持つ寺院として、立派な業績を残した。
なお、六世住職・荒沢哲翁師の法務関係歴、地域社会公職関係歴は次のとおりである。
法筵と寺院の整備
昭和22年6月、戦後の不安がいまだおさまらぬ中、大本山永平寺の熊沢泰禅大禅師を拝請し、御親化因脉会を修行した。
苫小牧市は翌昭和23年4月1日に市制を施行し、当時の世帯数は6,600戸、人口は約33,000人、、中央院の檀徒数は610戸に及んだ。
昭和24年4月、従来本堂内に仮設されていた位牌壇は狭隘であり、火防上も憂慮されたため、改修に着手し、1,000万円を投じて翌25年5月に九間三間半の新しい位堂を完成させた。
昭和27年4月には阿部喜助氏からの30万円の寄進により「長生閣(書院)」七間三間の建設に着手し、併せて庫裡の模様替え工事にも着手し、8月に完成した。また同年9月には再び永平寺熊沢泰禅禅師を拝請し、授戒会および初会結制を修行。これらの工事費と法要費は合わせて150万円にのぼった。
昭和33年4月、門前の国道拡幅舗装工事に伴い、境内地の五分の一が買収対象となり、さらに庫裡の一部も移転対象となった。これを機に、敢然新改築および山門新築、境内周囲のブロック塀建立に着手した。この年、王子製紙の労働争議の影響を受け、新改築は一時苦境に立たされたが、住職や檀信徒の努力により翌34年5月に総坪数186坪の庫裡およびその他の工事を、総工費900万円を費やして完成させた。6月にはこれらの落成及び80周年記念法要と再結制を修行した。
昭和37年2月には四世住職仙齢師の23回忌に際し報恩の一端として寺格を昇等し「別格地」となった。6月には大本山副貫首福井天章猊下を拝請し慶讃会を修行した。
昭和36年10月には荒沢義範師が副住職に就任。昭和41年4月には80年以上経過して老朽化が進んだ鎮守堂の新改築と本堂の拡張工事に着手し、同年7月に竣工した。
さらに昭和43年6月には、苫小牧市の人口増加に伴い本院の檀信徒も著しく増加。従来の施設では収容が困難となり、市建築部長後藤義弘氏らの設計により、十間七間の新霊牌堂の建設に着手。鉄筋ブロック造・二階建てで、総工費4,500万円を要し、翌44年7月に落成した。
昭和47年10月、報恩および授戒大法要として中央院四世住職荒沢仙齢師の33回忌に、大本山永平寺貫首佐藤泰舜大禅師を特請し記念法要を修行した。
このように戦後の中央院は苫小牧市の発展と歩みを共にし、寺院の拡充整備や大本山大禅師を特請した因脉会、大授戒会、法脉会の修行を通じて、苫小牧における最も歴史ある寺院としての発展と風格を備えるに至った。
山門の新設と開創100年
中央院の前身である第二説教場の創立は明治12年4月8日であるが、説教場設立以前においても、札幌小教院(中央寺の前身)との密接な関係のもとに僧侶の派遣を受け、当地における法要・仏事一切を執行してきた歴史がある。たまたま新築中であった山門の落成と時を同じくし、これらを併せて、開基百年記念を昭和五十一年十月に修行することが決定された。
記念行事に向けて、昭和51年2月に開創百年記念行事準備委員会が発足したが、実際には記念事業の一部が昭和49年よりすでに着手されていた。まず、昭和50年3月には境内地100坪を1,700万円で購入し、旧来の境内地と併せて200坪とし、舗装整備を施した(整備費700万円)。続いて同年6月には、書院「開雲閣」(25坪)を800万円で新築し、本堂も25坪拡張して600万円で完成させた。さらに翌7月には、本院住職夫妻により、開山塔および歴住塔を再建し、報恩の微意を表した。
昭和50年10月には、中村重信氏、伊藤喜三氏、中公喜一郎氏の三氏より各1,000万円の寄進を受け、総工費3,100万円をもって瓦葺山門ならびに間口五十間に及ぶ築塀を完成させた。これらは国道36号線に面して建立され、その偉容は往来の人々の目を引くものである。
また、記念行事としては、昭和51年7月28日、市民会館大ホールにおいて開創百年記念大講演会の夕べが開催され、講師には作家・尼僧として著名な瀬戸内寂聴(晴美)尼師を迎えた。講題は「道元さまにみちびかれて」。檀信徒はもとより、一般の来聴者も多数詰めかけ、会場は満席となり、寂聴尼師の講演に熱心に耳を傾けていた。
開教110年で大法要
開教百十年記念・本堂再建七十年記念・檀信徒会館および庫院新改築落慶・四世中興松岳仙齢方丈五十回忌、並びに諸記念事業完成報告の大法要が厳修された。
寒村の説教所から出発して一世紀余。今日では北海道でも屈指の大法城として知られるようになった同寺において、荒澤住職が、永平寺副貫首・札幌中央寺住職である宮崎奕保師を排請し、先師への報恩行として、療養中の身を押して円成した大法要であった。
荒澤住職は、肝臓を半分切除する手術を行い、医師から静養を言い渡されていた療養中の身であったが、この大法要に“一期一会”の思いを込め、全力を傾注してつとめ上げた。
二日にわたり、一連の事業に協賛した檀信徒による報恩大供養会が三班に分かれて厳修され、述べ千人近い人々が参列した。
報恩大供養会に続いて、宮崎副貫首の導師により、四世の五十回忌正当法要が執り行われた。島崎統監の法話の後、宮崎副貫首の導師により慶讃大法要が営まれ、大般若の祈祷法要が厳修された。
開教百十年・本堂再建七十年慶讃法要の香語は、
「道南名刹中央院。開教千茲百十年。梵閣紹隆輪奐美。願心回処在真禅」
また、四世中興松岳仙齢大和尚五十回忌の香語は、
「挙一明三閑古錐。目機朱両老宗師。當山四世中興祖。滅後臻今不惜眉」
であった。
宮崎副貫首は法要後、次のように垂示された。
「中央院は中央寺の新宅のようなもの。新宅の方が立派になって驚いている。皆様方の尊い合掌の姿に信仰の現れを見た。心の現れが動作であり言葉です。もの言わずして当山の方丈様の布教が行き届いていることを感じた。ここの方丈様は、身体の自由でないところを努めて報恩された。皆様方の今日あるのは先祖様のお陰です。ここは先祖様をお祀りしてある朝廟です。方丈様を中心にしてお寺にお集まり下さり、子々孫々に至るまで報恩下さい。」