沿革
History
中央院のはじまり
仏を信じるという宗教心は、人々の素朴な習俗として古くから息づいていました。
明治のはじめ、北海道がまだ開拓の途上にあり、苫小牧もわずかな戸数の小さな漁村にすぎなかった頃、人々は不慣れな環境と厳しい自然とたたかいながら漁猟に従い、またその産物を売りさばいて生計をたてていました。
そのように日々を暮らす人々にとって、仏に依りすがる心は神を敬うのと同じほど切実なものでした。
明治2年-明治12年
明治政府が北海道の本格的な開拓に着手し札幌から室蘭へと新国道が延び、勇払の地にも移住者が増えはじめる中で、人々は心の拠り所となる寺院を求めるようになっていく。その願いに応える形で、札幌中央寺を本寺として明治12年、曹洞宗第二説教場が開かれたことが中央院のはじまりとなる
第二説教所時代 ― 広範な地域を支えた祈りの場
開設された第二説教場は、交通の便がまだ乏しかった明治期において、苫小牧をはじめ、鵡川・白老・千歳など、広範な地域の仏事一切を担う唯一の拠り所となる。葬儀・法要・布教はすべてこの説教所で執り行われ、海と森に囲まれた道内の厳しい暮らしの中で、人々はここに集い、祈り、支え合いながら日々を重ねていった
中央院と歴代住職の歩み
大正10年5月1日
苫小牧の市街地1,007戸が被災した「こいのぼり大火」では、被災者の避難所として中央院を開放し、地域を支えた
昭和19年11月
加藤賢雄師が白老・竹浦の禅照寺と兼務をしながら改築した庫裡が、戦時下の困難を乗り越えて落成。同時期に禅照寺本堂新設も成し遂げるという力量を発揮した
昭和22年-昭和27年
戦後復興の混迷期において布教・社会福祉・教育活動に尽力し、昭和22年に因脈会、同27年には授戒会を修行
昭和44年
人口増加による檀信徒の増加に対応すべく、新霊牌堂(霊安堂)を落成
昭和51年-昭和59年
昭和51年10月、現在の姿となる山門と白壁の塀を建立し、開創100年 山門落成記念大法要を執り行う。同54年には第2霊安堂を整備、同59年に檀信徒会館、庫裡改築工事を行うなど伽藍の近代化を推進した
昭和64(平成元)年10月7日-8日
昭和64(平成元)年
10月7日-8日
哲翁師では3回目となる節目法要の開創110年 慶讃・落成祝祷法要を2日にわたり厳修し、延べ1,000人近い人々が参列、中央院の歴史を次代へと確かなものとする
平成2年2月
第六世住職 荒澤哲翁師が遷化
哲翁師は寺務にとどまらず地域行政にも深く関わり、苫小牧市選挙管理委員として市政にも奉仕。加えて、市内初の私立高等学校となる駒澤大学附属苫小牧高等学校の誘致・設立に尽力し、地域の教育環境の向上に大きく寄与した
平成10年
老朽化した木造本堂と鎮守堂を鉄筋コンクリート造の新本堂として再建し、境内墓地の移設も行って、中央院の姿を現代へと確かな形で継承
平成11年7月
開創120年 慶讃法要及び本堂落慶記念法要とともに授戒会を厳修する
平成18年2月
130年 慶讃法要を厳修するとともに本堂三尊仏建立開眼法要を執り行い、中央院の歴史を次代へとつなぐ節目を厳粛に寿いだ
平成28年9月
第七世住職 荒澤義範師が退董式を行い東堂となる。義範師は、寺門の護持にとどまらず、地域社会の育成にも深い理解と情熱を寄せ、縁ある駒澤大学附属苫小牧高等学校の部活動を長きにわたり支援し、若い世代が健やかに成長するための環境づくりに尽力した
併せて、副住職 荒澤道範師の晋山式が行われ第八世住職に就任
平成30年9月
開創140年 慶讃法要と授戒会が行われ、200名にも及ぶ戒弟に仏縁を結び、中央院の新たな歴史を刻む
また、胆振東部地震に際して、5年にわたる募金活動を続け各方面へ寄付を行い、地域復興に寄り添った
令和2年以降
未知のウイルスとして世界を襲った新型コロナウイルスの流行時には、檀信徒の要望に応じて柔軟に檀務を行い、参詣者ゼロの本堂においても先祖供養と檀信徒の安寧、そして世界的流行の終息を祈り続けた
令和8年-現在
道範師は、本堂西側銅板屋根の修復やWEBサイト開設など、情報化時代に合わせた寺院運営も進め、同年に行われる開創150年 記念法要に向けて、檀信徒とともに新たな歩みを続けている
中央院のこれから
太平洋の風を受けながら海の鎮守に守られ、中央院はこれからも地域とともに歩み続けます。
創建から150年を迎えようとする今、その歩みは新たな時代へと静かに続いています。

























